+開戦前夜 ——「リスドラ」番外編——
それは偶然だった。
見栄坊な代議士の父親の書庫——ろくに本など読まないくせに、教養を強調させるような本は山ほどあるのだ——から、今晩読む本を物色していたときだった。
哲学全集の、何となく興味を惹かれた一三巻を手に取り、カバーケースから引っ張り出し、ぱらりとろくに開いていなさそうな表紙を開いた時。
はらり、と一通の封筒が落ちた。
白い、洋型のセンスの良い封筒である。ヨーロッパあたりの輸入品だろう。ついでに言うなら、高価そうだった。
宛名は無論、父の名前。本川英成様、と流麗な字で綴ってある。裏返してみると、リターンアドレスはごく近い。町名こそ違うが、この家から一〇分ほど歩いたところだ。名前は——松波茂。
松波茂? どこかで見た名前である。住所もだ。いったいどこで——と眉をひそめかけ、ああ、と思い出した。クラス名簿で見たのだ。クラスメートの松波玲子の住所と同じではないか。ということは、年季の入っていそうな流麗な字を見るかぎりでは、この松波茂氏は玲子の父親ではないだろうか。
——特に仲の良いわけでもない、両親に放ったらかしにされている自分のクラスメートの父親が、わざわざあの父に何故?
そんな不審と好奇心が、藍子に手紙を開かせた。
ペーパーナイフですっぱりと切られた封筒の口から、ゆっくりと便箋を取り出す。枚数は三枚。縦書きだ。この流麗な字で、びっしりと書き綴られているらしい。
ゆっくりと、読み下した。
もう一度、読んだ。そして更にもう一度。
——まさか、そんなこととは。
藍子は深くため息をついた。
——別に驚くようなことでもないけど。
内心でつぶやいて、とりあえず彼女は、隣の父親の書斎で手紙のコピーを取り——丁寧にも、封筒の裏表までコピーした——手紙ごと本を元の場所へ戻すと、全く別の本を取って部屋に戻った。本の内容はガルブレイスについて。最近、社会系のドキュメンタリーに興味が偏っている彼女としては、妥当なところだろう。
「しかし、どうしたものか」
部屋の鍵をしっかりとかけて、ぽつりとつぶやいてみる。
本当はどうしようもこうしようもないのだが。
手紙の内容を見るかぎりでは、松波茂氏は、どうやら父親の大学時代の知人らしい。ということは、T大学関係の人間か。
手紙には、茂氏の娘のことが淡々と語られていた。娘、つまり、藍子のクラスメートである松波玲子のことだ。
十何年もの無沙汰になるが、元気か。長らく顔を見ていないが、禎子——これも共通の知人らしい——も元気でいるらしい。玲子ももう一五歳になった。だから何だというわけではないが、貴殿の意見というものを一度聞いてみたい。
何故なら、玲子は貴殿と禎子の実の娘であるのだから——。
その後は至って淡々と玲子の様子が綴られている。顔だちは母親によく似ていること、中学での成績はそこそこに良いこと、母親に似ない恬淡とした、ものごとへの執着の薄い性格のこと、母親がいなくてもきっちりと家事をこなせること、など。
娘。娘か。何の感慨もなく、藍子はゆっくりとベッドの端に腰を下ろしながら髪をかきあげた。
つまりは、この松波玲子というのは、父親の隠し子であるわけだ。自分とは腹違いになるはずだが……ただし、それは戸籍の上でのみの話だ。
本川家は、両親ともそれぞれに男性関係、女性関係が乱れている。双方ともに、愛人は常に複数抱えている。それも、入れ替わりが激しいらしい。
藍子の兄弟は兄二人、つまり三人兄妹なわけだが、確かに三人は同じ母親から生まれているらしい。が、父親はわからない。父親と母親のどちらもに似たところがあるのは一番上の兄だけで、二番目の兄も自分も、全くといっていいほど父親に似ていない。かといって母親に瓜二つかというとそうでもない。特に自分は、確かに母の娘だとわかる程度には似ているが、誰かほかの人間に似ているような雰囲気があるのだ。
それだけではない。何より決定的なことは、血液型だ。本川家は両親ともにA型のはずだが、藍子はAB型なのだ。藍子があの母の娘であることが確実なら、藍子は父の娘ではあり得ない。
それを知ったのは中学に入った頃だったが、別段ショックでも何でもなかった。ああやはりそんなものか、と思っただけだ。あの両親のことだから、やはりそんなところなのだろう、と。
父の愛人を見たこともある。証拠を押さえたこともある。まだ中学生にもならない娘に、びくびくと猫なで声でご機嫌取りを仕掛ける父に、藍子はそれとなくいくつかの要求を伝えたものだった。合気道の道場に通わせること、毎月小遣いとは別に一定額の図書券を渡すこと。私立の中学を受験しないこと——前にも拒否してはいたのだが、念を押したかったのだ——を認めること。その時に要求したのはその程度だっただろうか。
「今回はどうするかな……」
うまくすれば、この先の自由が保証されるかもしれない。大学や就職など、それからその先も便利な道具として様々な望まぬことを強いられる可能性は、多分にあるのだ。手持ちの札は多ければ多いほどいい。何たって、人を人とも思わぬ奴らなのだ。
そんな非常識な両親から、迷惑料としてふんだくるものはふんだくって、その後は独りで自分の力を試す。力のある人間だと——正確には力の有り余っている人間だと——自覚している自分は、何もなくたって何かができるだろう。それを確信して疑ったことはない。
もう一度、手紙を見直す。
淡々とした語り口の下に、茂氏は何を隠しているのだろうか。そして玲子は。
教室での玲子を思い出す。容姿はかなり目立つ。日本人離れした、ヨーロッパ系の血が混じっているような顔だちや白い肌、茶色いゆるいくせのある髪は、特に不真面目でもないのに教師どもの疑惑の的だった。そういえば、男親しかいないということをどこからか聞いたことがある。成績もそこそこ良いようだが、目立つほど飛び抜けているわけではない——例えば藍子のようには。
が、行動はどちらかというと大人しいほうだ。特に目立つ行動はひとつもない。どちらかといえば気さくで、クラスメートたちの受けも悪くない。なのに、妙な雰囲気を持っている、という印象があるのは、いつも一人でぶらぶらしているせいだろう。
もっとも、藍子のいるクラスは、少々変わった者が多いらしく、それくらいではさして目立つほうだというわけではないが。現に——と藍子は教室ですぐ後ろの席に座っている女子生徒を何となく思い浮かべた——大人しそうな顔をして、テスト直前だというのに教科書に隠して文庫本を読んでいた者だっている。三年のこの時期に、だ。
とりあえず、と藍子は考えた。とりあえずは情報収集だ。手っ取り早いのは——当事者への事情聴取だろうか。ターゲットは、無論松波茂氏。そして、もし居所がわかるなら、禎子とかいう玲子の母親、おそらくは父の愛人だったのであろう女性も。
藍子は少し考えて、ベッドサイドから電話の子機を取った。この家は、贅沢なことに一人一回線である。しかも必要もないのにデジタルなのだ。——藍子の戸籍上の父親というのは、そういう人だった。
名簿で松波の家のナンバーを確認すると、ゆっくりとプッシュボタンを押す。コール三回で、相手は出た。
『はい、松波です』
一聴して礼儀正しいさっぱりとした声。が——何かがひっかかる、と漠然としたかすかなものを感じながら、藍子は口を開いた。
「夜分遅くに申し訳ありません。本川と申しますが、玲子さんは——」
相手がわかっていても、一応そう名乗るものだ。
『ああ、私です。何? 連絡網?』
何かわざとらしいものを感じる。いや、声には現れてはいない。が、そういう微妙な空気を探り出すのが、藍子は得意だった。
「違う。第一、連絡網は順番が違うでしょ」
『留守で飛ばしたら、次は私じゃない』
ご尤もだ。が、そんなことはどうでもいい。
「ちょっと訊きたいことがあってね」
『……何?』
訊きたいことなんて想像もつかない、というけろんとした声に、藍子は内心で首をひねる。この娘はどこか変だ。どこが変か。それはわからない。わからないが、しかし。
「小崎禎子……という人を知っていると思うんだけど」
『ああ——』
何だそのことか、と言わんばかりの口調。不審な様子も感じられないのが、こっちにとっては不審だ。
「それと、あなたのお父さんの松波茂氏のことで。今じゃなくてもいいんだけど、少しいいかしら?」
用心しつつ、低い声で訊ねる。
『いいよー。でも、今は困るなあ。学校で——そうだな、放課後に四号館の四階と屋上の間の階段のあたりでどう?』
家だと、父親に聞かれるから困るのだろう。そして、学校でもなるべくなら人目につかないほうがいい。玲子がどこまでわかっているのかはわからないが、意図は理解できる。藍子は肯いた。
「OK、かまわないわ。放課後に四号館の屋上への階段あたりで。三時半くらいかしら?」
『そうだろうね。長くかかる?』
答えようとして、ふと気づいた。誰かが聞いている。見ているような気配がする。
「そんなには」
『じゃあいいや』
「テスト前だからね」
ドアのあたりの気配を探りながら、素っ気なく返す。玲子は笑った。
『そんなこと気にする人とも思えないけどなあ』
「そっちが気にするかと思って」
『私はどうでもいいけど』
くすくすと笑う。——何となく馬鹿にされているようで、気分のよくない笑いだ。そんな風に感じるのは、自分の気のせいだろうか?
「じゃあ、そういうことで」
『はいはい』
電話を静かに耳から離し、ゆっくりとドアに歩み寄る。いきなり、勢いよくドアを開け放つ。
——そこには、ふたつ年上の下の兄、忍がいた。
「何か話していたようだな」
「何か立ち聞きしていたようだけど?」
兄は肩をすくめた。
冷酷そうな無表情。形は整っているが、冷たくきつい瞳。硬質の、見据えられればいたたまれなくなりそうな、気の弱い者ならパニックになりそうな、その光。
父も母も、上の兄も恐れているであろうこの兄を、藍子は怖いと思ったことがない。この兄に真正面から向かってゆけるのは、世間広しといえども自分くらいだろうとも思っている。それくらい、この兄は特異な空気を持っていた。そして、その中身もまた。
「——小崎禎子のことか」
こういう展開であるからには、兄はその名を知っているのだろうと思ったが、案の定である。
「お前には関係ないわ」
「どうかな」
抑揚のない声、そして口元だけをかすかにゆがめるだけの、薄い笑い。人の神経を逆撫でする酷薄さ。藍子は鼻を鳴らした。
「どっちにしろ、そんなところにいられると邪魔臭くてしょうがないわ。蹴り出されないうちに出ていきなさい」
ドアノブに手をかける。藍子はやると言ったら必ずやる。それを知っている忍は、もう一度薄く笑うと廊下の奥へと踵を返した。
ドアを思いきり叩きつけたい衝動を抑えて、藍子は静かにドアを閉めた。
聞かれた。電話の内容を。
あんな話を聞いて、忍はどうするだろうか。
うかうかしてはいられない。十中八九、忍は放課後三中へとやってくる。妙な具合に首を突っ込まれては困るのだ。兄の思惑が挟み込まれるなど、冗談ではない。
放課後は気をつけなければ、と藍子はひとりごちた。
次の日は丸半日、何事もなく過ぎた。六限目は国語、一番眠くなる時間だ。細めに開けた窓から、秋の空気を風が運んでくるのが、唯一覚醒をうながすものだった。
この学校は、昼休みが終わるとすぐに一斉に掃除をする。なので、ショートホームルームが終わるとすぐに下校時刻である。
明日からテスト週間に入る。三年生にとっては、公立高校の入試に一番重要な二学期の中間テストの一週間前なのだ。無論、目の色がみな変わっている。ごく少数の例外をのぞいて。
藍子も、ごく少数の例外のひとりだった。どこを受けてもすんなりと受かるだけの成績は保持している。どの一流私立高校も、ひょっとしたら国立高校でも、受験するのが現実的だと教師どもに納得させることができる。出席日数にも全く問題はないし、内申書だけではなく全国模試でもトップクラスなのだ。
「あ、本川さん、これ」
終礼のあと、さっさと席を離れようとした藍子を、後ろの席の女子生徒が呼びとめる。
「さっき大塚先生から預かってきたんだけど」
「……」
学校の名前の入った茶封筒である。またか。うんざりと藍子は封筒をながめた。
国立の高校を受けない、と明言したための教師から保護者宛の嘆願書である。嘆願書、というのは藍子が勝手にそう呼んでいるだけなのだが、まあ、内容はそんなようなものだ。“良い”高校への合格率を上げたいばかりに、藍子にはどうあっても国立の高校を受けさせたいのだ。地方では知らず、東京で国立の高校といえば超難関である。生半な生徒を受験に送り出すわけにはいかないのだ。
手を出さずに胡散臭そうに封筒を眺めていると、クラスメートは困ったように柔らかく笑った。
「本川さん、また先生をいじめたんでしょ?」
藍子は目を上げてまじまじと相手を見た。——このクラスに、自分に向かってこんな風に話しかけられる者がいたなんて、知らなかった。
「受け取るだけ受け取ってあげれば?」
苦笑するような表情に、一瞬呆気に取られた。が——すぐに思い出す。こんなことをしている時間はなかったのだった。もうそろそろ三時半になる。
「わかった。もらっておくわ」
ぴっと乱暴に封筒を取ると、礼を言って踵を返した。
あの娘も、目立つほうではないが結構変わっている。——確か、安川という名前だ。
二学期になっても、一向にクラスメートの顔と名前を覚えようとしない藍子だったが、不思議と彼女の名前は思い出せた。
それが何故だかは、この時には藍子にはわからなかったが。
足早に二階の渡り廊下を抜け、特別教室のある四号館へと急ぐ。もう三時二〇分を過ぎた。兄はもう来ているかもしれない。
兄の忍は、この中学の卒業生である。今現在は、家から私鉄の電車一駅分乗車を含め、二〇分ほどの場所にある男女共学の私立高校に通っている。私立大学の付属校で、学力レベルはかなり高く、藍子なら楽に合格するだろう。家から最も近い高校でもある。兄が通っているのは気に食わないが、狙うならそのあたりかと思っている学校なのだ。
近いということは、この中学にもさして時間をかけずに来られるはずだ。
藍子は階段を駆け上った。革鞄とまとめてひっ掴んだヴァイオリンケースが邪魔だ。今日は強制的に通わせられているヴァイオリン教室のレッスン日なのだ。こんな役にも立たないもの——とはいえ、そこで壊れてもかまわないほど振りまわす気にもなれない藍子なのだった。
二階から四階まで一気に駆け上り、そのままの勢いで手すりをつかんで踊り場を回り込んで——ぴたりと足を止めた。
狭い踊り場で兄の忍が、松波玲子と正面から対峙していた。高校から直行したのだろう、光峰学院高校の制服のグレーのスーツと紺のネクタイ姿である。
二人の間の距離は一、二メートルほど。手を伸ばせば届く位置である。
藍子はくっと唇をひきしめた。
「忍——!」
カツ、カツ、と足音高く階段を上って行く。一段、また一段。
「何しに来たの?」
自然、低く硬く、冷たくなる口調。
「別に」
素っ気なく答える忍の口元が、わずかにゆがんで笑みの形を造る。あの、見る者の気持ちを凍らせるような笑みである。
が、そんなものは藍子には効かない。無駄だ。
「小崎禎子の話を聞きに来ただけだ」
「へえ——」
玲子は面白そうに笑った。——この娘、この忍の冷気が効かないのか?
「まあね、小崎禎子は私の実母だってことだけどね、私は物心ついてから一度も会ってないしねえ。ちょっとした情報しか持ってないわよ。むしろ」
ふふん、と鼻先で笑う。楽しくて楽しくて仕方がない、というような笑みだ。
こいつ……。
きっと藍子は唇をひきしめた。この娘は。
「松波茂のほうが、いろいろと知ってるはずよねえ。私の実父のこととか。小崎禎子がいかに尻軽の計算高い女だったか、とか。本川八重子がいかに利に聡い人間か、とか。それに——自分がいかに無気力で人生を投げた男なのか、とか」
にやり、と玲子は笑った。
「本川英成が、何で黙ってほかの男の子を産んだ妻を放っておいているのか、とか」
この娘は。
いかにも嬉しそうに、楽しそうに——いったいこの娘は何者だ!?
「知りたい?」
くすり、と玲子は笑った。
「知りたけりゃ、教えてあげてもいいよ。できるだけかき回してくれるならね。退屈なんだ」
形良い唇が、ゆっくりと笑みを象る。
「知りたいんでしょ」
形は笑みだが、決して中までは笑んではいないその形に、覚えず藍子は身構えた。
ゆっくりと——じれったくなるほどゆっくりと、玲子の視線はとろりと流れる。ぞくりと背筋に不快な気が走った。何だか——何か、これは——。
薄い茶色の瞳と、藍子の漆黒の目が、ぴたりと出会った。
その色素の薄い琥珀のような目に宿っているのは——あれは何だろう? 嘲り? 侮蔑? 軽視? 違う。そのどれでもない。彼女は、退屈なのだ。退屈でたまらないのだ。何もかもが。だから、退屈でないものを捜している。追い求めるような気持ちではない。それは願いですらない。むしろ虚無に近いような、からっぽの感情だ。
根拠はない。直感にも近い、それは確信だった。
彼女は、変だ。
彼女は——違うのだ。人とは違う。
きっと、人ではなく——人ですらなく、人の形をした何か。
その時。
ぴし、と何かにひびが入るような音がした。校舎中に響き渡るような、甲高い耳障りな音である。
はっとして藍子は目をあげた。
屋上へとつながる階段の踊り場は、暗くはない。むしろ、高い位置についている窓から差し込む陽の光が白い壁に反射して、明るすぎるほどだ。踊り場から更に屋上へと続いている階段は、途中から低い鉄製の格子扉で遮られており、その上は古い衝立やがらくたなどが埃にまみれて雑然と転がっている。
音は、その扉あたりから聞こえたように思えた。
何か——何かが、動いた。いや、何かが起こっている。藍子ははっとして目を周囲に走らせた。
目に見えるものは、何一つ変わってはいない。動いてはいない。が、空気の中に紛れ込んでいる目に見えない力——とでもいうものだろうか、五感以外の感覚で感じ取るような何かが、急激に渦を巻き起こしている。
それは、ゆっくりと大きくなりつつあった。じわりじわりと少しずつ勢力域を広げ、全てを取り込もうとしている。
藍子はじり、とあとじさった。階段の途中である。あともう二、三歩で踊り場に上がれる位置だ。危ない。そう思った。右頬のあたりがちりちりする。危険。そう、危険が迫っている。
その時だった。
渦の中を、滑るように忍が動いた。
それにつられるように、玲子はセーラー服のプリーツスカートをさっとひるがえして一歩下がった。
鋭い動作だった。急に動いては危ない——と思ったが、口にすら出せなかった。
ぐらり、と大気が揺れる。
「忍——!」
忍の手が、鋭く動いた玲子を追うように、しかし緩慢な動作で伸ばされる。無表情のまま、玲子は防ごうと手を上げる。が、その手をあっさりと忍の手はつかんだ。
「何を……」
「お前は」
堅い声だった。冷たいのはいつものとおりだ。が——何だろう。何かを、忍は知っている。あるいは、感じているのだ。
「お前は、何だ」
何かの色がついている声。忍に似合わないその色は、疑惑か——それとも、驚愕か。
「何者だ? 何をしている。こんなところで。何を——何の力を持っている? お前は」
ぐい、と忍は手首を引いた。
顔と顔が近づく。ほんの、手のひらを広げた距離もないほどに。
ささやくような、忍の声。
「お前は……誰だ……?」
無表情な顔同士が、向き合う。
一瞬——その瞳と瞳の間に、光が走ったように見えた。
まずい。
どうしてそう思ったのかはわからない。が、藍子は階段を蹴っていた。
「忍——! どきなさい!」
キケン。キケン。キケン。
煩いほど、脳髄の奥がわめきつづける。何故だ。今ここで、何が起こっているのだ。何故、自分にそれがわかるのだ。
キケン。キケン! キケン!!
藍子は左手に鞄と楽器ケースを持ったまま、右手を伸ばした。玲子の手首をつかんだ忍の手を、阻止しようとして。
何を阻止しようとしたのかはわからない。理解できないうちに、体が動いた。
そして。
顔だけをねじまげるようにして、忍は藍子を見た。そしてまた、玲子も。
同じような、無表情で。
同じような、虚無を孕んだ光をもって。
忍の逆の手が、どん、と藍子の胸元を突いた。
不安定な狭い階段の段の端にあった藍子の足は、あっけなく滑った。宙を踏む右足。何とか踏みとどまろうとする左足。手すりに伸びる右手。
右足と右手に堅い階段と手すりが触れた瞬間だった。
——硬い感触が、ふっと消え失せた。
ぐにゃり、と視界がねじまがる。全てのものが、まるでダリの絵の時計ようにゆがんでゆく。誰かが何かをつぶやいているような気がした。そして。
がんっと衝撃に近い頭痛が、藍子を襲った。
そのあとのことは——何も覚えてはいない。
ゆっくりと、藍子は起き上がった。頭が痛い。ぐらぐらする。座り直して、風景を見る。
それが、藍子——アイーラ・デ・アイルのドルシアの大地を見た最初だった。
End. 『リスドラ』に続く