岸花(ひがんばな)







 秋が、来た。
 例年よりも遅れてやってきた秋は、そのくせやけに足早に周囲を取り囲む。気がつけば、彼岸である。
 彼岸花の咲く、赤い季節だ。情熱の色と例えられる赤は、しかし夏よりも初秋を支配する。夏の色は、蝉の声と百日紅の紅と、向日葵の黄色。
 だから、赤は彼岸花の初秋なのだ、と思う。どこか魔法めいた、何か深いものを秘めたような、決して情熱などという明るい言葉とは無縁の赤が。
 彼女はそっと空を見上げた。
 見上げれば、つい昨日まで夏の湿度を孕んでいた空は、いつの間に衣を取り替えたやら、すっかり深い複雑な色をまとっている。これも魔法か。
 陽光はそれなりにきついが、風は心地よい。これこそ、風の音にぞおどろかれぬる、か。
 そして彼女は、幻を見る。



 着古した藍染の蚊絣をまとった女が、乾いた地べたに跪く。乾いて熱く燃えていそうな土は、実は気温よりもはるかに冷えている。
 女は地に触れる。指先で、そっと。細いが節のある手のひらを半端に広げて。
 田には稲穂。畦には草の緑。そして、赤。
 決して貧しくはないこの年の実りに、しかし女は表情のないまま地に、そして深みを増した青い天に嘆く。
 赤い花は、葬送の花。
 どんな年でも——水のない年でも、照らぬ年でも、必ず彼岸にはその赤い手を広げる、手向けの花。
 ——まだななつ。
 ——ななつなのに。
 ——まだしなねばならぬりゆうはどこにもないのに。
 ——何故。  幻は、囁く。かさかさと秋に似合わぬ乾いた響きで。
 しかし、女は黙ったまま口をきかぬ。
 囁くのは、乾いたその幻自身だ。



 彼岸花。この情景には元がある。わかっているのだ。
「曼珠沙華(ひがんばな)」という題の、北原白秋の詩だ。山田耕筰が曲をつけたもの。発表は大正十一年。美しいが、内容のせいであろう、唱歌として容易に口ずさまれるものではない。
 幻は、この唄のせいだ。彼女にはわかっている。



   ゴンシャン ゴンシャン どこへゆく
   赤いお墓の彼岸花 彼岸花
   今日も手折りに来たわいな
   今日も手折りに来たわいな



 女が、手向けの赤い花を摘む。ひとつひとつ数えながら、ひとつひとつ。



   ゴンシャン ゴンシャン 何本か



 震える指が、むしり取るように花を手折る。茎からにじみ出るものに白い指先が汚れてゆく。


 訊くな。私に。何故、などと、訊くな。この私に。
 いつも幻が脳裏に浮かぶたびに、彼女は何かを床に叩きつけたくなる。
 死んでしまった他所の女の子供のことなど、知らない。自分は、知らない。
 自分は、母ではない。母になったことはない。だから、数えるいわれもない——。



 秋は、深く身にしみてくる。空気はまだ、夏の名残を手放さないでいるというのに。秋は、赤い色となって染み通る。染み通って、彼女を支配する。



   地には七本 血のように 血のように
   ちょうどあのこの 年の数——




 顔も知らぬどこかの母親が、そっと地に手を触れている。
 数えながら。
 数えながら。
 数え、ながら。



 乱れた髪。長く肩に滑り落ちる黒。
 あれは、誰。



 ——生まれもしない子供が死に、そして泣きもしない母親。母という言葉が最も似合わない女。その恵まれた環境とは裏腹に、初めから産みたくはなかったのだと、ほっとした顔に笑みさえ浮かべてみせたのは、何故か。
 そんなこと、自分の知ったことではない。
 自分のせいではない。
 なのに。



 幻は、彼女の身を苛む。自分はあの女の身代わりか。何故、と、問いたいのは自分のほうなのに。



 ふり払おうとしても払えない唄が、髪のまわりにまとわりつく。
 だから、秋の空気が見え始めると、無性に髪を切りたくなるのだ。そうすれば、脳裏に染み込んだ唄の匂いを払い落とせるとでも思うのだろうか。



 見知った女の存在し得ない子供の年を、数えようとする自分をとどめるかのように。
 彼女はまた、今年も女の幻を見る。あの女とは似ても似つかない姿の幻を。
 絣の藍が、目に痛いほど深い。
 赤よりも——花の手向けの魔法めいた赤よりも、それが古い怪我のように痛む、秋。


参考 ——「曼珠沙華(ひがんばな)」作詩:北原白秋、作曲:山田耕筰



'04.10.01 Akiko Takashino
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