Paradise lost







 最後のページの参考文献の羅列を読み流し、ハードカバーの表紙をぱたん、と閉じる。重い、かなり重い分厚い本だ。今手がけている論文に関連があるわけでなし、まあ言ってしまえばどうでもいい内容である。今の自分にとっては。
 もう一度、表紙だけを開く。表紙と同色の次のページも一緒にめくれて、中表紙が見える。タイトルが重々しい茶の飾り文字で描かれている。陳腐なタイトルだと思う。が、この本を貸してくれと言った人間にとっては陳腐でもないのだろう。
 俄に店の中のざわめきが気になりだした。小洒落た喫茶店の午後。指定された待ち合わせ場所。雨が降っているが、あたりは明るい。寒くもなく暑くもなし、変な天気だ。
 指定されていなければ、自分ひとりでこんな店に入るわけがない。場所柄、男ひとりで入るのに困る店ではないが、やはり女性客のほうが多い。何となく居心地が悪い。そんな店だ。

 ——でさぁ、こんなことしてくれても困るんだけどぉ、って言ったらさあ——。
 ——わあ、リエコったら人でなしぃー!
 ——すっげぇ悪人じゃあーん?

 キャハハハ、と甲高い若い娘の笑い声が台詞を縁取る。若い娘に特有の、べったらとした語尾のはっきりしない口調だ。どうにもこうにも……あれだけは何とかならないか。まあ、自分の周りにはあんな喋り方をする女はいないからいいようなものの、あんなのにつきまとわれたらブッ飛ばしかねない。温厚に思われがちな自分だが、見かけよりもずっと人が悪いのだ。
 お前、つくづく人でなしだなあ。
 先日、従兄弟に言われたことを思い出す。何かあるたびに口に出される、自分たちの間でのお決まりの台詞。そう言う従兄弟だって、負けず劣らず人でなしだ。そう言い交わすのはいつものこと。まるで競うように、相手より先にその台詞を口に出そうとする。
 人でなし、結構。ここは人間の暮らす世界。天使のようにキヨラカではいられない。天使のような生物は、きっと一分だって生息していられない。どこかしら人でなしでなくては、息もできない。ここは、そんな世界。
 楽園は、とうに失われたものだ。
 そんなことを確認するかのように、自分たちは笑いながら言葉を口にのぼらせる。

 ——だからさあ、ほんっと困るよねえぇ。バッカみたぁい!
 ——で、どぉしたの、その指輪ー。
 ——あんなの、そのまま質屋に持ってったよぉー。
 ——えぇ、返さなかったのぉー?
 ——返すはずないじゃあん。当然でしょー。ブランドだから売れるしぃ。

 けたたましい笑い声。
 気楽なものだ。彼女たちの楽園は未だここにあるのだろうか? あるとしたらそれはどのような?
 “Paradise Lost”。それが、今手にしているこの本のタイトル。
 邦題をつけるなら、失われた楽園。世界各地に言い伝えられる失楽の伝説、それは文化学的にどのような意味を持つのか。それがこの本の内容だ。
 失楽園伝説に関する書籍を貸してくれ。そう従兄弟から打診されたのが、昨日。今日までにいくつか見繕ってくれだなんて、何てムシのいい言いぐさか。それでもちゃんと探し出してやるあたり、自分は親切だ。しかし、日本語の書籍を、と断っておかなかったのは、指定者のミスである。だから、内容的に一番参考になりそうなこの本は、英文だ。しかも、デジタルデータではなく昔ながらのアナログ製本だから、翻訳ソフトにかけることもできない。まあ、この論文は今現在、邦訳が出ていないのだから仕方がない。デジタル化されたデータも、どういうわけかデータベースから抜け落ちているのだ。いけしゃあしゃあとそう言い訳してやろう。
 いくら世の中でデジタル化、ネットワーク化が進んでも、まだ学術の世界では、アナログな本を出してなんぼ、という考えがまかり通っている。無論、論文はデジタルデータでも発表される。が、これはこれ、それはそれ、とでも言うように、アナログな形態での書物は出版され続けている。まるでこれが権威というものだ、と見せつけるように。そう、デジタルで発表するのは無料だが、アナログで本を出版するのは相当な金がかかる。だから、権威となり得ると考えられているのだろう。これは、そういった本のひとつだ。
 ぱたり、と再び本を閉じる。雨はまだ上がらない。
 と——そのとき、まさに待ち人が飛び込んできた。
 けたたましく笑っていた娘たちが、ふと声をひそめたのがわかる。なるほど、目敏くもヤツを見つけたのだ。ヤツの職業は俳優、本名は夏川紗人(なつかわあやと)、芸名は津川紗人(つがわあやと)。舞台中心だがドラマなどにも出演する、世間一般的にはかなり有名な部類に入る役者だ。——ちなみに紗人の兄も俳優で、こちらは彰人という。彰人と自分とは同い年、紗人はすぐ下の弟と同い年である。
 紗人はすぐに自分を見つけると、軽く手をあげて足早に近づく。
「や、カツ兄」
 のほほんと笑ってみせ、向いに座る。一見無頓着そうなそのしぐさは、しかし無粋な音は全く立てない。ウチの一族の者は大抵いつでもそんな感じだ。
「悪いね、こんなトコまで」
「ああ、悪いぞ」
 無遠慮な受け答えに、紗人は軽く肩をすくめた。そしてオーダーを取りに来たウェイターにカフェ・ラ・テひとつ、とメニューを見もせずに注文する。
「で、何かいいのあった? ひょっとしてその本?」
 にこにこと調子よく、人の苦労も知らずに訊いてのける紗人を、思わず蹴飛ばしたくなった。
 後ろで、あれってひょっとして津川紗人? という興味津々の声が聞こえる。うそぉぉ、ホントー? などという意味のない言葉が鬱陶しい。あれとは何だ、あれとは。しかも、本人の目の前で呼び捨てである。無礼な人間だ。が、紗人は慣れっこなのかびくともしない。そう、コイツは正真正銘ホンモノの津川紗人ですよ、小ウルサイお嬢さん方。
「そう、これが一番ご注文に近い」
 紗人は、ずい、と彼の差し出す本をぱらぱらとめくった。
「げ、英文じゃんこれ」
「悪い、邦訳出てないんだよな、それ」
「……うっわ、性格悪ぃ」
「それの四、五章をよく読んどきな。それくらいの英文なら軽いだろ? わりと読みやすい英語だぜ」
「……うー、時間ないってのに……」
「何言ってんの、シェイクスピアを原文の正しい発音で読む奴が。それが終わったら、次はこれな」
 隣の椅子から紙袋を出し、どさり、と目の前に置いてやる。ハードカバー四冊分——プラスデータディスク二枚——はさすがに重々しい音がする。
「まず、こっちのディスクが先。よさそうなのにはラベルつけといたから。それから、そっちの本——それじゃない、その青いヤツ。それは丸ごと読んで損はない。あとは——適当に目次見て選びなさい」
「……うー」
 台本読み来週なのにコレかよ、こうなりゃヤケだ、丸ごと全部読んでやる、徹夜してやる、とか何とかぶつぶつとつぶやきながら、それでも紗人は律儀に手帳にメモを取っている。
「で、何だ? 今度の舞台のテーマがそれなのか?」
 紗人は頷いた。詳しい内容は、聞いてはいない。こんな感じの資料を探せ、と言われただけである。
「う……ん。まあ、そんなとこ」
「誰が監督? 湊谷?」
「ご明察」
 たかが舞台ひとつに、文化学の論文まで持ち出さなければならない理由がそれでわかった。湊谷正祥は世界的な評価も高い舞台監督で、俳優にとっては「やりがいのある」なんて言葉では到底表現できないほど、厳しい監督なのだ。目の前にいるこの従兄弟は、子役に毛の生えた程度の中学生の時分から、その湊谷監督のお気に入りなのだ。それだけに、その厳しさも身に染みてわかっている——はずだ。
「今回のは新作なんだけどさあ……あーもうどうしようかな俺」
 ぱらら、と開きかけた本のページを指から落とし、紗人はべったりと机に突っ伏した。
「テーマは失われた楽園……だと思うんだけどさ。キリスト教的な失楽と読み取って、ストレートに“原罪”あたりを追求するのがいいのか、それとももっと広義の意味なのか……うーん、どうもねー。あのセンセイ相手だからねー、中途半端な読み方してくわけにもいかず……」
「失楽、ね。キリスト教圏じゃない日本文化圏で育った人間には、難しいかもな」
 うーうー呻っている紗人に向かって、軽く肩をすくめてみせる。
「とりあえず、楽園の意味から追求してったら? 失うには、まず存在していることが必要だろ。存在しないことには失えない」
 そのとおり。楽園などないこの貧しい地上に生きる分には、失う心配など必要ない。だから、人間というのは実に気楽にできているのだ。——違う意見の者も、それは大勢いるのだろうけれど。
 無責任につぶやいてみせたのだが——紗人はがばっと起きあがった。
「あ、それだ」
「……?」
「それだよ、それ。まず楽園の意味をどう取るかだよな。それによって、全く解釈が違ってくる。そうだよな。うん、うん」
 いきなり元気になりやがった。
「いやー、まずそこからか! うーん、なるほど。参考になりました。助かったよ、カツ兄」
 にこにこと歳下の従兄弟は頷く。単純と言うか何と言うか。
「ここはおごるからさー、ま、ゆっくりしてって」
 どさどさと本を重ね直して紙袋に突っ込む。
「ね、これいつまで借りてていいの?」
「全部俺のだからいつまででも。今んとこ使わないしね。濡らすなよ」
「へいへい、サンキュ」
 揉み手をしかねない調子の良さだ。ずるりと紙袋を椅子に下ろし、ヤツはちょうど運ばれてきたカフェ・ラ・テのカップを取った。
「で、最近どう?」
「どうって?」
「論文」
「書いてるよ」
 ほう、というような顔で、紗人はカップ越しにこちらを見た。目を丸くするんじゃない。そんなに真面目に論文を書いているのが珍しいか。
「どういう心境の変化? 真面目じゃん」
 余計なお世話だ。
「真面目だよ」
「ふーん。……それよりも」
 行儀悪く、ちょいと顎をしゃくってからかうような笑みを浮かべてみせる。
「最近、桂サンには彼女ができたらしいじゃないですか」
「……誰がそんなことを」
「榊」
 にやり、と紗人は笑った。榊とは、彼の弟のことだ。つまり、紗人には自分と同じく従兄弟にあたる。同い年のせいか、榊と紗人は実に仲が良い。
「まだ十代だって? 気をつけろよー、ヘタすりゃ犯罪だよ」
「余計なお世話」
 だからこそいつになく本業に真面目に取りかかっているのだと、何を言わなくても邪推してしまうのだろう、こいつらは。どのみち何を言われても構うつもりはないが。
「可愛かったよー……と榊は言っていた」
 榊は、と強調して、芝居がかった口調でからかう。こう言っておけば、矛先が榊に向かうのがわかっているのだ、コイツは。姑息な奴だ。
「トキワちゃん、っていうんだって? 今度紹介してよ」
「やなこった」
 人間、面倒臭いことはしたくないのは当然である。常葉にはこちらの素性すら明かしていないのだ。
 何をどれくらい、どう説明すればいいのか。
 今のままでやっていくことはできないのだろうか——。
「ま、いいけどね。榊がケータイの番号教えてもらったって言ってたしなあ。今度、一緒にゴハンにでも誘うかな」
「……アノヤロ」
 聞こえないようにつぶやく。そんなことを続けてみろ、たちまちのうちにばれるじゃないか。
 一度手に入れてしまった安寧は、手放したくなくなるのが人情というものだろう。だけど——。
「ま、がんばんな」
 くすくすと笑って紗人はカフェ・ラ・テを飲み干した。腕時計をちらりと見、伝票をつまみ上げる。
「もう行くのか?」
「ん、悪いね。これから収録があるんだ」
「どこで?」
「この先」
 そういえば、この近くにはテレビ局がある。そこのスタジオか。
「今度、おごるよ。榊にもよろしく言っといて」
「……お前のほうがよく会うだろう?」
 互いに独立して一人暮らしをしている今、榊とは何か起こらないかぎり滅多に会うことがない。しょっちゅうつるんでいる紗人のほうが頻繁に会っているはずなのに。嫌味か、これは。
 はは、それもそうか、なんて笑いながら、お気楽に紙袋を掲げてみせ、紗人は颯爽と去っていった。この鬱陶しくも寒い雨の中、元気なことだ。いつだってあの調子なのだ。——どこまでがポーズなのかは、自分には判断しかねるが。
 彼は、ちらりと壁にかかった時計を確認した。そろそろ午後四時。二つ目の待ち合わせの時間だ。果たして彼女は迷わずに来られるだろうか。
 しばらくぼんやりとしていると、静かだった後ろの席がまた騒ぎ始めるのが耳に飛び込んでくる。
 あれ何よ誰よあれ! カツ兄って言ってたよ、兄弟? ちがうでしょー、似てない! だって津川紗人のおにーさんっていったら津川彰人じゃん! えーっ!
 いちいち五月蠅いことこの上ない。誰が誰でも関係ないだろうが。早く待ち人は来ないものか。
 いっそのこと店を出てしまおうか、と思った時、小柄なピーコート姿が飛び込んできた。まだ待ち合わせ時間には間があるというのに走ってきたのだろうか、文字通り頭から飛び込む勢いだ。
「あ、桂!」
 噂の常葉である。元気が良すぎるほど良い。またしても注目を浴びてしまうが、べったらべったらと喋られるより、よほどこのほうがいい。
「や。早かったじゃない」
「……あれ、誰かいたの?」
 常葉は空のカップを訝しげに見た。座っていいものかどうか、逡巡する。
「ああ。従兄弟がね。本を貸してほしいって言うから待ち合わせてたんだ。もう出てったから座っても大丈夫だよ」
「……いいの?」
「いいの。仕事の合間に抜けてきたみたいだから、とっとと戻ってったよ」
「ふーん……」
 ばさりとコートを隣の椅子へと置き、それなら、と常葉は彼の正面にちょこんと腰掛けた。
「で、今日はどうするの?」
「そうだねえ」
 のんびりとした声で受け答える。
 “Paradise lost”。あの本のタイトルがくるくると頭の中を回る。失う楽園がなければ恐れることはない。だが。
 注文を取りに来たウェイターにメニューを頼んでいる常葉を見るともなく見ながら、桂は内心でこっそりと自分を嗤った。

B.G.M is "PARADISE LOST" by Ryuichi Sakamoto.





'01.09.26 Akiko Takashino
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